☆神の許しとは


1,自分と相手
 人は、
 「許す!」
 「許さない!」
 と言う。これは相手がいる場面に通用する言葉である。
  相手がいなければ成り立たない言葉でもある。
  第一者と第二者がその場にいたり、第三者が仲介に入って仲取り持つ言葉である。
 だが神の許しは相手がいない。神は自分自身を許す人を許す。この違いは何か?
  人は独りでは生きられない。人と人の間と書いて人間となる。
  人間は人と人の間に立って物事を判断して成長している。
 陰と陽、表と裏、善と悪、長と短、大と小、太陽と影、暑いと寒いも同じ事である。
  これは全て相手がある場合に起こる現象である。
  相手がいなければ比較することも出来ないのである。
 しかし神には相手がいらない。全て自分自身の心の中の思いである。神は自分を許す人を認める。
  これは善と悪であれ、臆病と勇気であれ、陰気と陽気であれ、全ての人に神は生きることを許して
  いる。  神から見れば平等である。しかし人間は自分と他人を比較して判断し「良い人と悪い人」に
  見て区別でなく差別で「許す!」「許さない!」と言う。

2,詫びると自由
  人は「私に詫びるまで許すことは出来ない!」とか「お詫びします!」と言う。
  これも相手が悪いと思っているから言う言葉である。詫びを入れる前に何か原因があり、因果が
  あるから結果として詫びることになる。
  この相互関係は詫びを入れさせた人が、詫びを入れる人を引き寄せたり、詫びを入れる人が、
  詫びを入れなければならない人を引き寄せている。
 だが神は自分を自由にすることを望んでいる。自由とは自分が相手を許すことである。
  相手に詫びを入れさせることではなく、自分の心に戻り、自分が引き寄せたのだから、
  相手の身になって判断することを望んでいる。
 相手がいなければ「詫びる!」「詫びない!」は起きない。 神はあなたを成長させるために
  近づけ試されている。これが神の試練である。
 神は全ての人に自由になれることを与えてくれた。だが人はその試練を理解せず、己の動揺を
  隠すために、相手を脅迫するために出した言葉である。自分自身が自由に生きていない人が、
  心の中で相手を引き寄せて、自分自身を試しているに過ぎない。相手を許さない人は、自分自身
  も許していないから心の病になり、その結果として病気になる。

3,過去と未来
 人は過去に起きたことを許すことが出来ない。「いつ 何処で 誰が 何を どうした」と言うことを明確
  に覚えている。だから忘れることが出来ない。これは全て過去に起きた原因と結果である。
  過去に執着しているから、いつまでたっても忘れない。問題や出来事が解決しても覚えている。
 神は「未来を見つめろ!」と言っている。過去に縛られるより未来に進むことを望んでいる。
  だが人は忘れない。過去が大切だからである。過去は己の人生の教訓だからである。
  この教訓を大切にし、二度と起きないように、安全に世間を渡るようにしたいからである。
 だが神は違う。「いつ 何処で 誰が 何を どうする」と思い続けよと言う。自分の目標を見つけ前進
  することが、過去を忘れる唯一の方法だと言う。
 誠の自分に戻り、ロマンである目標と期限を明確に描き過去を忘れ、未来に向かって勇気を出す
  ことが神の許しである。
 過去を患い鮮明に覚えている人は、自分自身を過去の産物と化し、同情心を引き寄せ臆病な
  人間になり、老化して敗北人生となる。素晴らしい未来に乾杯を!

4,足枷と無枷
 人は自分に足枷(あしかせ)をはめて生きている。もっと自由に行動をしたい!
  もっと自由に生きたい! と思っているが、自由奔放に生きている人を見ると非難する。
  なぜ自由になれないのか?
 自由に生きていない人は、人が自由に生きていると抑制したい。
  自由に生きている人を白い目で見たり、冷たい目で見たりする。
 幼い頃、親から
 「あれをやってはいけない!」
 「これもいけない!」
 「世間体が悪い!」
 「私が恥ずかしいからヤメテよ!」
 「もう少し親のことを考えてよ!」
 「何べん言えば分かるのよ!」
 と言われ続け、いざ大人になって「何でも好きなことをやって見ろ!」と親は勝手なことを言う。
 だが子供はいざ自由になった途端に何も出来ない。出来ないから親の顔色を見たり、
  逃げ回って非行に走る。
 神は「無枷」である。何をするにも自由である。自由だから自分自身の足で歩き、色々体験し
  経験したことを認める。無枷の親には無枷の子供が産まれ育ち、そして体験し悟りを開く。
  悟りは自分自身の感じたことであって人には分からない。
 親自身が足枷をはめた人は、我が子であっても自由になることを許さない。だが親自身が無枷の
  人は、我が子も同じ無枷である。これが神の許しである。

5,素直
 素直にも二通りある。一つの素直は「人に逆らわない様子と人に従順」、もう一つは「飾り気がなく、
  ありのままな様子。純朴であり、ねじ曲がっていない様子。癖がなく、のびのびとしている様子」が
  ある。
 一つ目の素直は相手に対しての素直であり、二つ目の素直は自分に対しての素直である。
  人は自分に対して素直な人を求めて人生を送りたい。自分の思う通りになる人を近づけたい。
  だが反面に自分は人の思う通りになりたくないと願う。これは自分に足枷をはめず、相手に足枷を
  はめて生きたい。相手を束縛して生きたいと思う本能がある。
 神は自由にのびのびと生きている人を認める。ありのままで純朴な生き方を願っている。
  癖がなく明るい人を許している。
 人はありのままに生きている人を悪く思う。人を悪く言う人も言われた人も神は平等に見ている。
  それなら純粋にありのままの人生を、精一杯生きた方が神の御心に叶い幸せになれると思う。
  素直に前向きに生きることが神の許しである。

6,残心と無心
 人は相手を許した途端に、許した相手から憎しみが返ってくる。許した本人は許したことにより忘れ
  始めるが、相手は憎しみと怒りがこみ上げてくる。これが残心となり蓄積され心の病になる。
 許した方も忘れ始めたが心の隅に残っている。これも潜在意識に残心として、忘れることが出来な
  いから病んでしまう。これが「人を憎めば穴二つ」である。
 人の許しは一時的であり、わだかまりがなかなか解けずに、相手に対して心のどこかに、悪くなって
  ほしい、失敗してほしい、自業自得になってほしい、成功しないでほしい、誰かにいじめられてほし
  い、誰かに憎まれてほしい、病んでほしいと願ったりする。 だが神の許しは永久であり、精一杯生
  きることであり、素直に前向きに生きることであり、翼を広げ雄大であったり、私利私欲を求めずで
  あったり、陰陽和合や表裏一体であったり、上下や地位もなく自然の摂理であり、自然のままに生
  きることであり自由である。
 神は心に無学を求めている。無学とは無に徹して学ぶことである。これが夢学であり、夢用であり、
  夢能である。そして「卒業に学びなし、学びに卒業なし」を好み、自分を信じ自分に感謝し、周りの
  人に感謝し「我は最幸な魂があり、最光な神である」と思うことが神の許しである。

7,神の許し
 自分自身を許さず、人をも許していない人は心の中で、比較と競争、悲しみと嘆き、陰謀と魂胆、
  貧乏と不幸、怨みとひがみ、臆病と優柔不断、過去と目先、陰気と病気、短気と損気、地獄と足枷、
  権威と権力、嫌いと憎しみ、悪と仕返し、我慢と辛抱、不満と不安、非難と批判を常に心の中で思い
  煩っている。
 神は違う。愛、好き、喜び、楽しみ、明るい、陽気、裕福、自然、健康、やる気、元気、勇気、根気、
  その気、人気、頑張る、出来る、希望、夢やロマンなどを好み、前向きに精一杯生き続ける人を
  応援する。これが神の許しである。神は自分自身を「信じよ!」と言う。だが自分自身を許していな
  い人は、人を許すことが出来ない。自分を信じていない人は人をも信ずることが出来ない。
  「人の行く裏に道あり、花の山」と言う読み人知らずの言葉がある。この言葉は何を意味するか?
 子供は親から足枷をはめられ、親のあやつり人形と化し老化していく。親の引いた人生を歩く方が
  楽だからである。それは自分の意志を出すと親に叱られたり、親を安心させたいからであって、
  子供の意志を出せなくさせている。多くの子供は親が引いたレールを歩き安心しているが、
  実際には子供も不安があるからである。安心することは「不安だから」の裏返しである。
 神は「自分を信じて邁進しろ!」と言う。自分を信ずる心は「己に感謝!」することである。
 不満と不安があれば、不満と不安が近づき、悲しみと嘆きがあれば、悲しみと嘆きが近づき、憎しみ
  と怨みがあれば、病が近づく。
 神は人間を信じている。だから「誰でも思う通りの人生を歩け!」と言う。なら、あなた自身が
  「私は先祖の魂を受け継ぐ、最幸な魂があり、最光な神である」と毎日思い続けることである。
 この方法は神の許しであり、自分自身を許すことにより、周りの人をも許すことになる。
  周りの人を許すことは前世の自分をも許すことになる。なぜならば「一番嫌いな人が前世の姿で
  あり、前世の人生」だからである。
 誰でも前世の出会いであり、前世の再会を果たしている。それも前世の人生は真反対な人生が多く、
  前世の再会や出会いは、全て陰陽和合と表裏一体や清濁併せ呑むようになっていて、これが先祖
  の出会いであり神との約束である。
 神の約束は計り知れない試練があり、何人たる人も逃げることが出来ない大自然の摂理である。
  これが運命であり、運命とは毎日刻々と変わり続けることであり、これが定めであって、不変であり
  不易である。
 だから心が変われば運命は必ず変わるようになる。これが神の許しであり神の体験である。
  神はどんな人間をも許しているが、人間は区別でなく差別で物事を判断して「許す!」「許さない!」
  を繰り返しているから、不幸が何代も続いている。


 自分自身に感謝できることが、修成大神の許しである。